成立から江戸末期
1.櫛渕氏の成り立ち
1-a.櫛渕姓発祥の地
櫛渕姓発祥の地は、現在の徳島県小松島市櫛渕町(Kushibuchichou)である。櫛渕の由来は、その土地の形状に起因する。
「櫛渕町は、徳島県小松島市の町名で、櫛淵町と表記されることもある。2016年2月末の人口は864人、世帯数は338世帯である。小松島市の南部に位置し、東は立江町、南は向山山地を境として阿南市羽ノ浦町に、西は丘陵を境に勝浦郡勝浦町、北は田野山地を境として田野町に接する。三方を丘陵に囲まれたクサビ形の平地が東部に向かって展開している。隆起や沈降によりオボレ谷状にできた入江が櫛目状に連なり、櫛目形の谷が山麓を東西に走る。県道28号阿南小松島線に沿って農村集落が発達している。中央部の平地は深い湿田となり、米作が卓越し、段丘面上や段丘崖では、タケノコ・ヤマモモの特産地を形成している。櫛渕城址は櫛渕五山の第2山にあって、城主は秋元和泉守盛貞である。八幡神社にあるフウは県指定天然記念物となっている」(Wikipedia『櫛渕町』より引用)
「西暦645年の大化の改新の時、646年の阿波国櫛渕は世帯数30数戸、人口180人?であったという。1017年に櫛渕荘(石清水社領)とある」(櫛渕町史p212.p213より引用)
「櫛淵荘は1017年(長和6)に後一条天皇から石清水八幡宮が寄進を受けた荘園で、別名を櫛淵別宮(Kushibuchi Bekku)ともいい、八幡宮司家の田中氏に伝領された。1205年(元久2)宮司家の田中通清がその子宗清に譲っている所領のなかに現れるのが初出とある。
1221年(承久3)承久の乱により朝廷が幕府に敗北し、鎌倉幕府と朝廷の二頭政治状態にあったものが崩れ、幕府は朝廷方の膨大な荘園を没収し、幕府方の御家人に分け与えた。
1222年、櫛淵荘にも新補地頭として『秋本二郎兵衛尉』が補任され、その代官による地頭非法が続き同年、八幡宮側は鎌倉幕府に訴え、『秋本二郎兵衛尉』は非法停止の六波羅下知状を受けた。しかし地頭非法は止まず、争いは『秋本左衛門次郎泰恒』の代まで60年にわたり続いた。1334年の南北朝期に一時的に地頭職が八幡宮社家に付せられた。1396年(応永3)に守護請けの地となって、領家職ならびに公文田所職のみが八幡宮に残された」(平凡社『百科事典マイペディア(櫛淵荘)』・『世界大百科事典(櫛淵荘)』より引用)
1-b.櫛渕姓の始祖 秋元和泉守盛貞 Akimoto Izuminokami Morisada
「秋元和泉守盛貞は諏訪大祝であった盛澄の子孫で、信州上諏訪城主繁野貞國六世の孫であり、信州秋元の里を領知していたところ、1502年(文亀2)阿波国に入り、細川家宰三好之長の支援を受け、之長の姪で板野郡大谷城主森伊豆守忠明の娘を娶り、阿波守護細川家の家臣となり、那賀郡櫛渕村・三倉村を領知した。1503年(文亀3)、那賀郡大野城主が細川家に反抗したため盛貞が攻め落とした。その戦功により、その領のうち立江・古毛・荒田野・上大野・下大野など7村3000貫(1貫=5石相当とすると15000石)を領知し、櫛渕村に居城を築き苗字を櫛渕に改めた。騎馬士150騎、徒士300人を抱えた。櫛渕村に諏訪・八幡・杉尾・天満宮・額明神の五社を建立した。1560年(永禄3)秋元和泉守盛貞は没した。嫡子紀伊守盛之が相続した。(盛澄より盛貞まで代々の名、細川家の名、大野城主の姓名は分からずと記述)」(私本系譜『成立書並系図共(秋元勘右衛門)・同(櫛渕駒藏)』より引用)
1560年(永禄3)88歳で没(櫛渕町史p128.p533)、行年88歳で逆算すれば、1473年(文明5)生まれと推定される。
「上記の件について櫛渕町史では、1貫を5石と換算しており、7村を領有すれば3000貫も不自然ではないと説明している。また、伝えでは盛貞の家老・家老脇・大将の7名に2000貫を与えたとあり、騎士150人、歩卒300人とあれば、数字の上からはあながち過大とは言えないと説明している」(櫛渕町史p127より引用)
ところで地元徳島では、鎌倉時代の新補地頭秋本氏が戦国の秋元氏に続いている、というのが通説となっているらしいが、私はそうは思わない。以下にその理由を説明する。
「阿波国櫛渕別宮地頭秋本二郎兵衛尉代官としての荘園の任務に背き、神の民相伝の良田を略奪し、農業を妨害しているのを早く停止させること。右訴状のことは、新地頭秋本二郎兵衛尉代官が、神の民相伝の良田を略奪し、地頭分と言って横領して云々」(櫛渕町史p119より引用)
「さて、秋本家はその後どうなったであろうか。承久の乱後櫛渕地頭になって以来、子孫がこの地に住みついて280年。この間の記録がない。が徳島県史、小松島市史とも戦国秋元氏とは同一家として続いていると説いていて恐らく誤っていないと思われる。一旦信州へ帰って、再度来村したとは考えられない。」(櫛渕町史p126より引用)
町史ではこのように説明しているが、地頭秋本氏本人が遠方から櫛渕へ来村したわけではなくて、本人に代わって代官を派遣したということであろう。当然、子孫も櫛渕には生れず、戦国の秋元氏が歴史に登場するまでの280年間、秋本氏の記録がないということになる。しかも、いったん信州へ帰って再度来村したとは考えられないと言うが、新補地頭の秋本氏が信州から来たという記述は町史のどこにも見当たらず、そういった史料や説明も私は見たことがない。逆説的に、私本系譜にあるように戦国の秋元盛貞が信州から来たということに乗っかり、鎌倉時代の地頭秋本氏も信州から来たと決めつけているか思い込みがあるのではなかろうか。
また280年間と言うが、地頭秋本氏が補任されて174年後の1396年には、櫛渕は守護請けの地となり、地頭職から守護職の支配地となっている。さらには、盛貞が1502年に阿波に入国し阿波守護の細川家家臣となった同じ年に、守護の細川成之も京都から阿波へ下向しており、もしかすると盛貞は細川成之に従って阿波へ移ったということも考えられる。だとすれば、盛貞子孫の「成立書並系図共」には阿波へ移る理由が記されていないが、細川家宰であった三好之長から何らかの打診があり、盛貞にも何らかの理由があって信州から京都に上り、細川家に従って阿波へ渡ったのではなかろうか。
「が、再び名の出るのは文亀2年(1502)である。秋元系図によれば、この年秋元和泉守盛貞は信州秋本城主であったが、武田晴信に敗れて阿波に落ち、三好之長を頼ったと記している。がこれは少し怪しいと思われ、晴信の信濃侵攻は天文末年のことで50年後のことである」(櫛渕町史p126より引用)
徳島での通説では、秋元盛貞は武田晴信に敗れて阿波に逃げ延びたというのであるが、それもこの町史に記述された内容が原因であろう。秋元勘右衛門と櫛渕駒藏の「成立書並系図共」の文中には、秋本城主、武田晴信に敗れてという記述は見つけられない。いったいどうして櫛渕町史にこのような記述がされたのか理解に苦しむ。
「信州深志城主長時が天文年間武田晴信に敗れ、阿波へ落ちて来て、子長幸が立江城に住んだというから、小笠原・河原両氏はもと同門である」(櫛渕町史p136より引用)
この部分の記述が、秋本和泉守盛貞にも適用されてしまったのかもしれない。
「櫛渕に住んだから姓を秋元とも櫛渕ともいい」(櫛渕町史p127より引用)
これはその通りで、秋元盛貞は信州から櫛渕村に移り住んだからこそ櫛渕と改姓した訳で、だからこそ櫛渕村に移り住まなかった地頭秋本氏は改姓しなかったのではないか。
「八幡神社を祭り、信州から諏訪神社を分祀し、また、杉尾社(諏訪の父母兄嫂を祭る)、額明神(諏訪の子孫を祭る)、天神社を祭り、これを櫛渕五社と称する。ただ八幡社は宮の内にあったものを勧請したものか、細川義則が新たに祭ったものか、盛貞が祭ったものを義則が規模を大に祭式を本格化したものか。後述するが之照の館を蜂須賀家政が訪れたとき、之照は五山神社のことを家政に話しているから、やはり秋元盛貞が宮の内の古八幡社を遷宮したのであろう」(櫛渕町史p127より引用)
盛貞は阿波へ移った当時、櫛渕五社を建立した。この中には故郷の諏訪神社、諏訪の父母や兄・兄嫁を祭った杉尾社、諏訪の子孫を祭った額明神などがある。これも地頭秋本氏から続く秋元氏という通説を否定する材料となろう。地頭秋本氏の子孫が280年も経ってから建立したとは無理があり、本当に地頭秋本氏が信州から移って来たのであれば、その時点で建立したはずである。
次に、盛貞以降の江戸幕末まで続く系統を記す。
2.江戸時代末期までの阿波櫛渕氏・秋元氏・秋本氏
2-a.櫛渕氏 (先代の時に秋元から改姓)
【櫛渕紀伊守盛之】Kushibuchi Kiinokami Moriyuki
櫛渕家第2代当主。本姓は平氏である。⇒ (櫛渕 紀伊守 平 盛之)
秋元和泉守盛貞の嫡男、盛貞から家督相続、三好家の家臣、1584年(天正12)11月18日病死。(1835年.秋元成立書・櫛渕成立書)
家督を継ぐまでは万太郎と称して、侍大将を任されていたか。(櫛渕町史.p128)
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【櫛渕次良五郎盛利】Kushibuchi Jirougorou Moritoshi
秋元和泉守盛貞の二男で盛之の弟。成長した後、大野城へ城代として派遣された。(1835年.秋元成立書.p0082)が盛利は、兄盛之や末女が若死にしたのをはかなみ、城外に草庵を結び仏門に入った。(櫛渕町史.p129)
また紀伊守次良五郎盛利ともいい、仁木伊賀守が城主である上大野城の家老であった。長宗我部軍に攻められて落城した際に、上洛していた仁木伊賀守の一子高持式部大輔大学に連絡を取り、仁木家の再興を図ろうとして櫛渕村に身を隠していたが、百姓に変装し夜陰に紛れて櫛渕村を発ったときに、無念にも途中で追手に捕らえられ斬殺されてしまった。
(旧大野村誌)
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【櫛渕左近佐成公】Kushibuchi Sakonnosuke Nariaki
紀伊守盛之の嫡子、三好家の家臣。1582年(天正10)8月28日、中富川の戦いで長宗我部軍に対し、三好方の十河存保軍として参戦し戦死した。(1835年.秋元成立書・櫛渕成立書)別名で櫛渕国武ともいう。(Wikipedia中富川の戦い/十河勢の主な戦死者と城名)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→「櫛渕成公」
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【櫛渕紀伊守長實】Kushibuchi Kiinokami Nagazane
左近佐成公の嫡男、1584年(天正12)3月22日、19歳で家督を継ぐ前に病死した。
(1835年.秋元成立書・櫛渕成立書)
中富川の戦いで父の成公が討死したため、17歳であった長男の長實が長駆けして、中富川に父の死骸を捜し求めて帰り葬った。(櫛渕町史.p129)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→「櫛渕長實」
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【櫛渕次良五郎松實】Kushibuchi Jirougorou Matsuzane
櫛渕家第3代当主。
櫛渕成公の子で櫛渕長實の弟。蜂須賀家家臣櫛渕家初代。初めは祖父の弟である盛利の家を継ぎ次良五郎と称し、1582年(天正10)長宗我部方の武者を立江で討ったが、1584年(天正12)兄長實の死によって本家を継いだ。(櫛渕町史.p129)
祖父紀伊守盛之が病死したため家督相続した。長宗我部元親の支配下に置かれていたところ、翌1585年(天正13)蜂須賀家政が阿波へ入国時、弱冠19歳であったが、弟の五郎大夫成松と騎馬士35騎を引連れて一宮城へ出向き、家政に謁見を許されて200人扶持を与えられ蜂須賀家家臣となる。仁宇谷百姓一揆鎮圧に働きがあった恩賞で、1586年(天正14)次良五郎松實へ知行300石、五郎大夫成松へ知行200石与えられることになったが、1589年(天正17)恩賞が取り消しになった。1592年(文禄1)秀吉の朝鮮出兵に出陣した蜂須賀家政に従い、彼の地で戦死した。(1835年.秋元成立書・櫛渕成立書)
1585年当時19歳、推定で1566年(永禄9)生まれ、26歳で没。
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→「櫛渕松實」
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【櫛渕五郎大夫成松】Kushibuchi Goroudaibu Narimatsu
(後閑櫛淵家初代当主→名を櫛淵主税宣常と改めた Kushibuchi Chikara Nobutune)
櫛渕成公の子で櫛渕松實の弟。蜂須賀家政が阿波へ入国時、兄の次良五郎松實と騎馬士35騎を引連れて一宮城へ出向き、家政に謁見を許された。仁宇谷百姓一揆鎮圧に働きがあった恩賞で、1586年(天正14)次良五郎松實へ知行300石、五郎大夫成松へ知行200石与えられることになった。1589年(天正17)恩賞が取り消しになったため仕官を断り大坂へ退去。1601年(慶長6)8月8日、大坂で病死した。(1835年.秋元成立書・櫛渕成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→「櫛渕成松」
大坂で病死したということにして妻子は阿波へ戻した。本人は常陸国鹿嶋の地へ剣術修行に旅立ち、その後は上野国沼田領真田家の客分となった後、子孫は帰農して後閑村に住んだ。
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【櫛渕所左衛門之盛】Kushibuchi Syozaemon Yukimori
櫛渕家第4代当主。
櫛渕松實の子、蜂須賀家臣櫛渕家2代目。1593年(文禄1)父松實が朝鮮出兵で戦死したため、幼少だった之盛は親類の家で養育された。1607年(慶長12)くらい、之盛17歳になった頃、家政より松實に子供があるのかお尋ねがあり、之盛は家政のそば近くに召抱えられた。(俸禄は不明である)蜂須賀至鎮の長男・忠英の時代(1623~1652)まで仕え病死したが、年月日は不明である。(1835年.櫛渕成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕松實→「櫛渕之盛」
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【櫛渕次良五郎盛房】Kushibuchi Jirougorou Morifusa
櫛渕家第5代当主。
櫛渕之盛の子、蜂須賀家臣櫛渕家3代目。父之盛が亡くなった時には盛房はまだ幼少であり、親類の家へ預けられた。その後は藩の軽微な仕事に就き、江戸において徳音院様たちに先祖が受けた恩賞の宛行状を差し出したが、当分の間は3人扶持8石にしておくこととなった。1684年(貞享1)盛房は病死した。(1835年.櫛渕成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕松實→櫛渕之盛→「櫛渕盛房」
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【櫛渕又兵衛盛政】Kushibuchi Matabee Morimasa
櫛渕家第6代当主。
櫛渕盛房の子、蜂須賀家臣櫛渕家4代目。1678年(延宝6)亡き父盛房が江戸へお供の折り召連れて、江戸において仕官となり3人扶持8石を賜り3年詰を命じられる。その後は江戸のお供の度命じられる。大坂の御用で、他国米改めの役目を命じられ勤務した。1723年(享保8)8月9日、病死した。(1835年.櫛渕成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕松實→櫛渕之盛→櫛渕盛房→「櫛渕盛政」
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【櫛渕次良五郎盛俊】Kushibuchi Jirougorou Moritoshi
櫛渕家第7代当主。
櫛渕盛政の子、蜂須賀家臣櫛渕家5代目。1706年(宝永3)11月18日仕官、3人扶持8石。1712年(正徳2)、御役御免になる。1751年(宝暦1)2月18日、病死した。(1835年.櫛渕成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕松實→櫛渕之盛→櫛渕盛房→櫛渕盛政→「櫛渕盛俊」
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【櫛渕孫郎盛明】Kushibuchi Magorou Moriaki
櫛渕家第8代当主。
櫛渕盛俊の子、蜂須賀家臣櫛渕家6代目。1746年(延享3)6月5日仕官、4人扶持7石。1759年(宝暦9)7月18日、病死した。(1835年.櫛渕成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕松實→櫛渕之盛→櫛渕盛房→櫛渕盛政→
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櫛渕盛俊→「櫛渕盛明」
【櫛渕次郎助盛強】Kushibuchi Jirousuke Moritsuyo
櫛渕家第9代当主。
櫛渕盛明の子、蜂須賀家臣櫛渕家7代目。(1835年.櫛渕成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕松實→櫛渕之盛→櫛渕盛房→櫛渕盛政→
櫛渕盛俊→櫛渕盛明→「櫛渕盛強」
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【櫛渕駒藏幸行】Kushibuchi Komazou Sachiyuki
櫛渕家第10代当主。
櫛渕盛強の養子、蜂須賀家臣櫛渕家8代目。(1835年.櫛渕成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕松實→櫛渕之盛→櫛渕盛房→櫛渕盛政→
櫛渕盛俊→櫛渕盛明→櫛渕盛強→「櫛渕幸行」
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2-b.秋元氏 (櫛渕から改姓)
【秋元幸左衛門成貞】Akimoto Kouzaemon Narisada
秋元家初代当主。本姓は諏訪氏である。⇒ (秋元 幸左衛門 諏訪 成貞)
蜂須賀家家臣。櫛渕五郎大夫成松の子、恩賞問題で父母と共に大坂に退去。その後阿波に戻り苗字を先祖の秋元に改姓し、1648年(慶安1)から代々100石取りで蜂須賀家臣となる。秋元家初代蜂須賀家臣。
若年の頃大坂において蜂須賀至鎮から、江戸の御供を仰せつかる。以後、毎回江戸・大坂の御供をするよう命じられる。至鎮長男の忠英の時代(1623~1652)に知行「高百石」の俸禄を受けた。1653年(承応2)8月3日、病死した。(1835年.秋元成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕成松→「秋元成貞」
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【秋元仁兵衛成之】Akimoto Nihee Nariyuki
秋元家第2代当主。
秋元成貞の子、蜂須賀家臣秋元家2代目。父親幸左衛門が江戸に3年詰めている内に召し出され3年勤めたが、この御用は何の御用か不明である。1653年(承応2)家督相続した。1657年(明暦3)江戸上屋敷普請の御用のため赴き、同年12月28日帰郷し、その後、流木方御用を勤め、月路見御用を9年、中嶋御用を6年勤めた。病気につきお役目を御免被りたく願い出たが木頭御代官を仰せ付けられ、7年勤めるようにとのことで、それなら謹慎したいと願い出て、5年で御役御免となった。6年目には泰壽院様御賄い御用のため江戸へ赴任し、翌年帰還。その後、海部金山見分の御用を勤め、西の丸御番を勤めるうちに病気につき御番を御免被る。かれこれ四十何年御奉公した。長男の幸左衛門が名代として江戸へ出仕。1685年(貞享2)12月12日、長男幸左衛門が家督相続し、自身は隠居名を休印と改めた。1693年(元禄6)4月10日、病死した。(1835年.秋元成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕成松→秋元成貞→「秋元成之」
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【秋元幸左衛門成春】Akimoto Kouzaemon Nariharu
秋元家第3代当主。
秋元成之の子、蜂須賀家臣秋元家3代目。1685年(貞享2)12月12日、家督相続により仕官。御林奉行を勤めるうち、海部槙小屋御手山仕分を兼務する。御材木御払い方見分のために大坂へ行き、その後、御借用銀の御用のため大坂へ行った。1703年(元禄16)7月24日、病死した。(1835年.秋元成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕成松→秋元成貞→秋元成之→「秋元成春」
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【秋元仁兵衛成房】Akimoto Nihee Narifusa
秋元家第4代当主。
秋元成春の子、蜂須賀家臣秋元家4代目。1703年(元禄16)家督相続により仕官。願い出た通り仁兵衛と改名した。1707年(宝永4)2月10日、お供に先立ち江戸へ赴き、翌年4月29日帰還した。1718年(享保3)5月、仁良院様の御供で江戸へ行き、翌年5月7日帰還した。1732年(享保17)7月9日、御城山定御番を勤める。長男の喜三左衛門は病気のため、退身を願い出た。中山直右衛門の二男、半左衛門を姪の聟養子に願い出て認められる。1751年(宝暦7)12月9日、養子半左衛門、今後は名代となり仕官する。自身は隠居名を三休と改めた。1762年(宝暦12)9月10日、病死した。(1835年.秋元成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕成松→秋元成貞→秋元成之→秋元成春→「秋元成房」
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【秋元半左衛門盛則】Akimoto Hanzaemon Morinori
秋元家第5代当主。
秋元成房の養子、蜂須賀家臣秋元家5代目。1751年(宝暦7)12月9日、養父の仁兵衛の名代として今後は仕官する。御城山定御番を勤める。1766年(明和3)10月24日、この後は御小姓組を編成し、組頭を勤める。大番頭次席に任命され御役料として年中米五石を頂き、同年12月23日、御礼式御用を勤め、なおまた御役料のため毎年白銀七枚を頂いた。1769年(明和6)、白銀拾枚を頂いた。1770年(明和7)6月27日、御城山定御番を勤める。同年12月8日、昆野忠右衛門の二男、直右衛門を聟養子に願い出て認められる。1774年(安永3)7月8日、御役替え以後、大坂御払い米御用の御目付を併せ、大坂御屋敷詰の御目付役を兼務する。同年9月29日、大坂へ行き翌年10月6日帰還、1777年(安永6)5月8日、大坂へ行き翌年10月5日帰還。1780年(安永9)8月8日、養子直右衛門、今後は名代を勤め仕官した。自身は隠居名を遊山と改めた。1799年(寛政11)2月27日、病死した。(1835年.秋元成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕成松→秋元成貞→秋元成之→秋元成春→
秋元成房→「秋元盛則」
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【秋元直右衛門成茂】Akimoto Naoemon Narishige
秋元家第6代当主。
秋元盛則の養子、蜂須賀家臣秋元家6代目。1777年(安永6)3月5日、大嶋伴十郎が江戸在番中に、安之丞様の御槍術御指南役を命じられた。1780年(安永9)8月8日、養父半左衛門、今後は名代として仕官。半左衛門■■■役を命じられ、同年9月28日、大坂へ赴任し翌年10月6日帰還した。1782年(天明2)11月7日、御役替えで御厩御馬具積技御馬取支配を命じられた。1787年(天明7)9月13日、御役替えで大谷御屋敷御繕い番役を命じられた。1796年(寛政8)4月18日、年■御番■■を怠り、勤務することが骨折りになった。思し召しにより1801年(享和1)6月8日、この役目を解任された。1803年(享和3)9月、江戸往還のお供で上り、同10月16日帰還した。1809年(文化6)老年で病気につき、願い通りに12月8日、長男の勘右衛門が今後は名代で仕官し、隠居名を山答と改めた。1811年(文化8)2月3日、病死した。(1835年.秋元成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕成松→秋元成貞→秋元成之→秋元成春→
秋元成房→秋元盛則→「秋元成茂」
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【秋元勘右衛門茂胤】Akimoto Kan-emon Naritane
秋元家第7代当主。
秋元成茂の子、蜂須賀家臣秋元家7代目。1794年(寛政6)12月5日、親直右衛門、願い通り初めて拝謁を受けた。1809年(文化6)12月8日、直右衛門、願い通り今後は名代として仕官。1825年(文政8)正月2日、病気療養が大切なので長男の仁平次へ相続を願い出て病死した。(1835年.秋元成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕成松→秋元成貞→秋元成之→秋元成春→
秋元成房→秋元盛則→秋元成茂→「秋元茂胤」
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【秋元勘右衛門盛典】Akimoto Kan-emon Morisuke
秋元家第8代当主。
秋元茂胤の子、蜂須賀家臣秋元家8代目。1821年(文政4)2月、願い通り初めて御目見えを被る。1825年(文政8)3月13日、願い通り家督相続し仕官。1829年(文政12)江戸のお供で乗船し、4月26日帰還した。1836年(天保6)2月3日、願い通り勘右衛門と改名を許された。同年9月3日、御城山定御番を命じられた。1848年(嘉永1)4月18日、職を辞し、1859年(安政5)11月3日、嫡子佐五郎、病気につき願い通りに退身となった。1860年(安政6)7月3日、願い通り増田玄達弟の惠喜助を養子に許された。1860年(万延1)7月24日、惠喜助、西洋流砲術教授方本役を命じられた。同年11月、惠喜助、若殿様に初めてお目通り叶う。(1835年.秋元成立書)
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→櫛渕成松→秋元成貞→秋元成之→秋元成春→
秋元成房→秋元盛則→秋元成茂→秋元茂胤→「秋元盛典」
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2-c.秋本氏 (櫛渕から改姓)
【秋本右衛門五郎盛行】Akimoto Uemongorou Moriyuki
秋本家初代当主
櫛渕左近佐成公の子、櫛渕五郎大夫成松の弟。1586年(天正14)蜂須賀家政の命を受け、那賀郡小仁宇村(現在の那賀町)に移り秋本姓に改め、小仁宇村の政所役を勤めた。
(2008年.文書館の逸品展)(秋本家文書.p2)(櫛渕町史.p137)
先祖の秋元姓ではなく秋本姓としたのは、本家に遠慮したためか。
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→「秋本盛行」
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【秋本弥左衛門】Akimoto Yasaemon
秋本家第2代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→「秋本弥左衛門」
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【秋本次郎兵衛】Akimoto Jirobee
秋本家第3代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→「秋本次郎兵衛」
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【秋本弥三郎】Akimoto Yasaburou
秋本家第4代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
「秋本弥三郎」
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【秋本藤兵衛】Akimoto Toubee
秋本家第5代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→「秋本藤兵衛」
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【秋本庄兵衛】Akimoto Shoubee
秋本家第6代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→「秋本庄兵衛」
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【秋本佐助】Akimoto Sasuke
秋本家第7代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→秋本庄兵衛→「秋本佐助」
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【秋本多三郎】Akimoto Tasaburou
秋本家第8代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→秋本庄兵衛→秋本佐助→「秋本多三郎」
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【秋本和三郎】Akimoto Wasaburou
秋本家第9代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→秋本庄兵衛→秋本佐助→秋本多三郎→「秋本和三郎」
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【秋本徳太郎】Akimoto Tokutarou
秋本家第10代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→秋本庄兵衛→秋本佐助→秋本多三郎→秋本和三郎→「秋本徳太郎」
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【秋本嘉太郎】Akimoto Yoshitarou
秋本家第11代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→秋本庄兵衛→秋本佐助→秋本多三郎→秋本和三郎→秋本徳太郎→「秋本嘉太郎」
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【秋本金二郎】Akimoto Kinjirou
秋本家第12代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→秋本庄兵衛→秋本佐助→秋本多三郎→秋本和三郎→秋本徳太郎→秋本嘉太郎→「秋本金二郎」
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【秋本嘉徳】Akimoto Yoshinori
秋本家第13代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→秋本庄兵衛→秋本佐助→秋本多三郎→秋本和三郎→秋本徳太郎→秋本嘉太郎→秋本金二郎→「秋本嘉徳」
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【秋本嘉重】Akimoto Yoshishige
秋本家第14代当主
先祖は、秋元盛貞→櫛渕盛之→櫛渕成公→秋本盛行→秋本弥左衛門→秋本次郎兵衛→
秋本弥三郎→秋本藤兵衛→秋本庄兵衛→秋本佐助→秋本多三郎→秋本和三郎→秋本徳太郎→秋本嘉太郎→秋本金二郎→秋本嘉徳→「秋本嘉重」
1586年(天正14)より明治まで代々小仁宇村の政所役(庄屋)を勤めた。(櫛渕町史.p137)